絵本千一夜物語

 1968年2月5日初版(定価380円)天声出版/イラストレーション:宇野亜喜良


200ページで構成されている寺山風の千一夜物語。大きさは普通の単行本サイズ。宇野亜喜良のイラストが70点ほど掲載されています。宇野さんのファンにとっても貴重な作品かもしれません。絵本というよりも、千一夜物語の挿画を宇野亜喜良が担当したというほうがイメージしやすいです。綴じ込みのイラストが一枚入っています(写真)。広げると長さ80センチほどになるもの。東京。高円寺駅前の古本屋で発見しました。


目次:

  • 前口上/はじまり
  • 第一夜/ありとあらゆるものの瓶詰を売る瓶詰商会と「さよならの瓶詰」の話
  • 第二夜/地下鉄サブは妹のユカに云った、「おお妹よお願ひだから商人と怪力プロレスラーの物語の残りを聞かせておくれ」するとユカは答へた、「当然の務めとして悦んでお話し致しませう。ただし親分のお許しがありますれば」そこで「犬の鼻先」は云った、「話すがよい」彼女は次のやうに云った。
  • 第三夜/着られた首の大学がビートルズの「イエスタディ」を唄った話
  • 第四夜/善良な犬殺しと三人の映画女優の物語
  • 第五夜/「犬の鼻先」は云った。「おお、入浴場面は終わったが、その先を続けられよ」すると少女は答へた「悦んで、そして快よいお務めと心得まして」そして話は続けられた。
  • 第六夜/せむし男殺人事件と赤いバラの話
  • 第七夜/盲をあなたに
  • 第七夜つづき/情事の目玉 または天井桟敷の人々
  • 第八夜/トラホームのジャックまたは新宿ブルース
  • 第九夜/ああ、アリ馬場「ひらけ、胡麻」その一夜
  • 第十夜/ああ、アリ馬場「ひらけ、胡麻」その二夜
  • 第十一夜/ああ、アリ馬場「ひらけ、胡麻」その三夜
  • 第十二夜/ああ、アリ馬場「ひらけ、胡麻」その四夜
  • 第十三夜/ああ、アリ馬場「ひらけ、胡麻」その五夜
  • 後口上

前口上

千一夜物語(Alf Lailah oua Lailah)には多くの印刷本と、それぞれかなり異なる若干の写本がある。たとえば一八一四年にカルカッタにて出版されたCheik El Yemeni版、一八二五年から四三年へかけてのプレスラウにて出版されたHabicht版、エイスタ教父らの手に成る改訂版、マドリュス博士によるファスケル版などである。だが、これから紹介される寺山修司の私家版は、さうした原典と一切の関はりあひを持たない。まったく独自の千一夜の幻想と魔術の物語である。しかも催笑的効果があるからと言って、喜劇的であるなどと買い被ってはならない。これは喜劇と言ふほど大袈裟なものではなくて、ほんの冗談なのである。

後口上
さて、これで寺山修司版(Alf Lailah oua Lailah)は終わった訳ではない。まだ、ほんの十三夜をすごしたばかりである。地下鉄サブの妹のユカの詩と空想も、まだまだ尽きるところを知らないし、その脳裡にたたみこまれている書物、年代記、古の王の伝説、昔の民族の歴史も、ほんの一部分を費ひきったにすぎない。これから繰展げられるであるところの九百八十八夜を、私は暇にまかせて書き続けてみるつもりである。どうして、多くの印刷本、写本の千一夜物語があるのに、私がこんあものを書く気になったのかと言ふと、私にもよくわからない。
エルンスト・フィッシャーの「吸血鬼論」(Zeitgeist und Literatur)によると、「ロマン主義的な自然体験は矛盾にみちたものだった」となっている。「自然のなかの吸血鬼じみたもの、消耗させ、滅ぼすはたらきをするもの、悪魔の女としてのヴィーナス、血をおひもとめるダイアナ、かうしたものが、政治上および産業上の革命に対する幻滅ののちに、ますます顕著にあらわはれてきた。つまり、社会的なものが自然感情のなかに反映したのだ」と言ふ訳だ。

私にとって、私自身の分身でもある「新宿界隈の妖怪たちが、社会感情の反映であるかどうかよくわからない。私は、歴史の流れにとっては、一客体にすぎないし、私自身のイリュージョンなども、意のままに支那手品のやうに見えたりかくれたりしているわけではないのである。しかし、百鬼夜行の時代にあって、私が口から出まかせにしゃべりまくるこの空想譚は、いはば私の証言なのであり、私自身のアリバイであることはたしかなようだ。

「えっ、アリバイと言はれるか? 殺人事件はまだ起きていないのに」
「さやう。だから今のうちからアリバイを作っておくのです。
 事件が起きてしまってからでは、遅いのだ」

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