第一回寺山修司祭記念「五月の伝言」

寺山修司一周忌を迎えた昭和59年5月。
地元青森で開催されたのが「寺山修司祭」でした。
寺山修司祭実行委員会が発足。

前夜祭
●5月2日/シンポジウム(弘前市)

「われに五月を」寺山修司祭
●5月3日/映画「書を捨てよ町に出よう」上映
●5月4日/映画「田園に死す」上映とシンポジウム
●5月5日/演劇特集(八戸小劇場)

ビデオ作品を観る会
●5月3日/レミング/人力飛行機ソロモン
●5月4日/天井桟敷アンソロジー/寺山修司・谷川俊太郎ビデオレター

実験映画上映と寺山修司を偲ぶ夕べ
●5月3日/実験映画「トマトケチャップ皇帝」上映
●5月4日/実験映画「マルドロールの歌」上映
●5月5日/実験映画「迷宮譚」上映
●5月6日/実験映画「消しゴム」上映
総打ち上げ/田中泯と福士正一の舞踏

そのとき発行されたのが「第1回寺山修司祭/五月の伝言」(写真/右)と
翌々昭和60年の「第2回寺山修司祭/五月の伝言」(写真左)です。

29年前に発行された「第1回五月の伝言」の中には、
谷川俊太郎、原田芳雄、三上寛など多くの方の
思い出が綴られています。その中から
寺山修司の恩師である中野トク先生(三沢第一中学校)の
思い出の文章を紹介します。

「飛翔する/中野トク(青森県児童文学研究会員)

寺山修司が高田馬場駅近くに下宿していた昭和30年6月6日の夜
教え子の大学生二人を伴って訪ねた日の記憶は鮮明である。
二十九年早大に入学した直後の手紙は頭が痛い、どうしたことかとあり、
川口市の病院に入院、続いて立川錦町川野病院に
混合性腎臓炎のため入院、退院して下宿を替え、
高田南町に落ち着いた時である。
庭に面した明る部屋に机が据えられ壁に
「手押し車どこを押せども 母まづし」と、
クレパスで書かれた色紙が飾られてあった。
洋服箪笥なども据えられ、並々ならぬ母上の愛情が
感じられたものである。
彼もこの部屋が気に入っていて、是非お立ち寄り下さいと
手紙に書いてある。
私達三人をいそいそと迎えた彼は軽い調子で
「どうなっているんだろう。本当に、又入院です」と笑った。
どきりとして見上げた私になんでもないといった表情で笑って応じた。
浮腫みの脛(すね)を私の目の前に出して
押して見てと云った表情をするので手を差し出すと
「これはいけない、レディの前で」と教え子の女子大生に目をやって
足を引っ込めた。
近くの鮨屋で鮨でも食べましょうかと云うことになり外へ出た。
病人とは思えない陽気な足取りでかなり多弁であった。
私の贈った青いセーターは寒い夜は着て寝るんだと云い、
私の友人の贈った下駄を鳴らして底抜けの明るさを見せてくれたいた。
鮨屋では山葵抜きを一人分注文してここでも多弁であった。
話題の中にブラウスと云う言葉が出てくると、ブラウスって何だと云う。
「ブラウスを知らないの、女の人のシャツのようなものよ」
と説明する私に怒ったように「書くときはちゃんと調べて書くから」と云っていた。
高校の時の寺山修司がここにいると思い楽しい一時であった。
「貴方は俳句のことでよからぬように書かれているようだけど・・・」
と言葉を濁す私に寺山修司は先刻とはうってかわり憤然として
「そのことはもう済んだ、僕の才能を誰もが認めている」と
吐きだすように云ってのけるのだった。
私はこの当り、この子は問題児童なのだと思いながら二の句が告げずに
引き下がることになった。三沢市に帰ったら追って便りがあり、
俳句で自分の間違ったことを高慢に認めていた。
一時間ほどして鮨屋を出て高田馬場駅に向かう。
私の傍に近く寄った寺山修司は
「今、僕が死んでも新聞に小さく載るよ」と小さな声で私に云っていた。

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