年譜/昭和10年~

1935年(昭和10年)
12月10日 寺山八郎、寺山はつの長男として、青森県大三沢市に生まれる(のちに弘前市紺屋町であることが判明)。本籍地は、青森県上北郡六戸村、現三沢市)。父・八郎は弘前署の警官。

1936年(昭和11年)
父の仕事が忙しく、母は産後、保養していて、1月10日生まれとして役場に届けられる。母堂はつが、修司と命名。

1937年(昭和12年/1才)
父、刑事となり五所川原署へ転勤のため、五所川原に転居。この年、膀胱結石にかかるが薬で完治する。

1938年(昭和13年/2才)
父の浪岡署への転勤のため、浪岡に転居。

1939年(昭和14年/3才)
父の青森県警への転勤のため、青森市内に転居。

1940年(昭和15年/4才)
父、巡査部長となり、経済保安課に配属。

1941年(昭和16年/5才)
八戸へ転居。父、召集され出征する。母と二人で青森市へ転居。青森市の聖マリア幼稚園で劇「基督降誕劇」を上演。羊飼いの役を演じる。

1942年(昭和17年/6才)
青森県橋本小学校に入学。

1943年(昭和18年/7才)
絵の展覧会で知事賞を受賞。

1945年(昭和20年/9才)
「少年倶楽部」を愛読。青森大空襲で焼出される。伯父の寺山義人に会い、三沢の古間木駅近くの寺山食堂の二階に間借り。古間木小学校に転校。父の戦死を知らされる。父・八郎は、セレベス島でアメーバー赤痢によって戦病死(以前は、アルコール中毒のため、セレベス島で戦病死となっている年譜が多かった)。母ハツ、三沢市のベースキャンプの図書館へ勤める。

1946年(昭和21年/10才)
母の勤め先の米軍将校の口添えで米軍没収の家を譲り受け、母子で暮らす(寺山修司は一人暮らしと脚色している)

1947年(昭和22年/11才)
少年ジャイアンツの会に入る。シナトラの「オンリーはロンリー」の唄おぼえる。

1948年(昭和23年/12才)
古間木中学校に入学。秋、青森市松原町の大叔父夫婦(坂本勇三、きえ)宅に引きとられる。勇三は映画館歌舞伎座を経営、その裏に居宅があった。母は、九州芦屋のベースキャンプに勤めに出たため、別居。青森市野脇中学校に転居。

1950年(昭和25年/14才)
少年ジャイアンツの会青森支部委員、クラブは文芸部長。野脇中学校新聞に短歌を発表。「黎明」「はまべ」に俳句を発表。「中学時代」を購読。漱石、龍之介、藤村、有三、直哉、花袋、鴎外、谷崎、石坂洋次郎などを濫読。

1951年(昭和26年/15才)
「東奥日報」に俳句を発表。青森県立青森高校に入学。新聞部、文芸部に参加。親友の京武久美の刺激により俳句を本格的に始める。吹田狐蓮主宰の「暖鳥句会」に出席、投句。高松五麗主宰の「寂光」に投句。「青森よみうり文芸」に投句。「東奥日報」に短歌「母逝く」を発表。

1952年(昭和27年/16才)
青森県高校文学部会議を組織。京武久美、近藤昭一(のちに自殺)、塩谷律子(のちに自殺)らと全国詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。学生サークル「山彦俳句会」を創立。「青い森」を発行。県下高校生俳句会を主催。「青森よみうり文芸」「氷海」に投句。秋元不死が選。「七曜」に投句。橋本多佳子が選。

1953年(昭和28年/17才)
全国学生俳句会議を組織。俳句研究社の後援を得て、学生俳句大会を主催。前年と同じ句誌の他に「蛍雪時代」「浪漫飛行」「万禄」「断崖」などに投句。仏映画「肉体の悪魔」に感動。高校三年生の成績は、国語甲5、国語乙5、漢文4、世界史5、数学5、地学5、体育4、英語3。皆勤だったが、欠課は275時間もあった。この年、斉藤茂吉、釈迢空死去。

1954年(昭和29年/18才)
伝統の検証を旗じるしに、全国の高校生に呼びかけて、10代の俳句雑誌「牧羊神」を2月に創刊。高校卒業。上京、川口市に下宿。早稲田大学教育学部国文科に入学。北園克衛の「YOU」に加入。シュペングラーの「西洋の没落」に心酔、夏休みに奈良に旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる。中城ふみ子の短歌に刺激され、「チェホフ祭(原題、父還せ)」50首応募作品の投稿。特選となり11月巻頭に掲載。当時の編集長は中井英夫であった。
自作の俳句を短歌にアレンジしたことと、俳句の草田男、西東三鬼、不死男の影響が強かったために俳壇、歌壇で問題となる。立川の河野病院に混合性腎臓炎のため入院。退院。高田馬場に下宿。冬、ネフローゼを発病。