寺山修司歌集 血と麦

 

1962年7月15日初版(定価700円)/白玉書房/ブックデザイン:和田誠


小生の所有する寺山コレクションで最も古い書籍です。


目次

砒素とブルース/老年物語/血/わが時、その始まり/呼ぶ/うつむく日本人/映子を見つめる/血と麦/山羊をつなぐ/行為とその誇り/私のノオト/寺山修司/主要作品目録


私のノオト/寺山修司

とうとう信じられなかった世界が一つある。そしてまた、私の力不足のゆえに信じきれないもう一つの世界があるように思われてならない。多分、それはまだ生れ得ない世界なのかもしれないが、しかし私はその二つの中にはさまれていま耳をそばだてている。「今日、人類の運命は政治を通してはじめて意味をもつ」と言ったトーマス・マンの言葉がいまになって問題になっている。
だがいったい、そんな警告がどんな意味をもっているだろうか。私は決して「永遠」とか「超絶性」とかにこだわるのではないが「人類の運命」のなかに簡単に「私」をひっくるめてしまう決定論者たちをにがい心で思いで見やらない訳にはいかない。
だが同時にピートニックのスチュアートポルイドのように「ぼく自身の運命、世界からもほかの人たちから切り離されたぼくだけの運命がある」と思うでもないのだ。むしろ、そうした一元論で対立としてとらえ得ないところに私自身の理由があるように思われる。

大きい「私」をもつこと、それが課題になってきた。
「私」の運命のなかにのみ人類が感ぜられる・・・そんな気持ちで歌をつくっているのである。第一歌集「空には本」の後記を読むと、まるで蕩児帰る。といった感がする。そちこちでかって気ままな思考を発酵させて帰ってくると、家があり部屋があるように、「様式」が待ちかまえていると私は思っていたらしい。

私はコンフェッション、ということを考えてみたこともなかった。だが、私個人が不在であることによってより大きな「私」が感じられるというのではなしに、私の体験があって尚私を超えるもの、個人体験を超える一つの力が望ましいのだ。私はちかごろSoulという言葉が好きである。心、魂、そんなものを自分の血のなかに、行動のバネのようなものとして蓄積しておきたい、と思っている。

いま欲しいもの、「家」
いましたいこと、アメリカ旅行。
いませねばならぬこと、長編叙事詩の完成。
いま、書きたいもの、私の力、私の理由、そしてまた、たったいま見たいもの、世界、世界全部。世界という言葉が歴史とはなれて、例えば一本の樹と卓上の灰皿との関係にすぎないとしてそうした世界を見る目が今の私には育ちつつあるような気がするのだ。

今日までの私は大変「反生活的」であったと思う。そしてそれでよかったと思う。だが今日からの私は「反人生的」であろうと思っているのである。

一九六一年夏 寺山修司

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