往復書簡 友人・山田太一

「はだしの恋唄」(1967年初版)に収録されている「十九才」という日記風のエッセー。早稲田大学時代に、同級生だった脚本家の山田太一との往復書簡をまとめたものです。


十九才

これはぼくと友人の往復書簡である。
友人の名前は山田太一。いまはシナリオライターになって「記念樹」の台本を書いていたりしている。

この手紙のやりとりを始めたとき、ぼくらは十九才と二十才だった。大学の構内で、ぼくらは貧しい時代のアルト。ハイデルベルヒを、書物とレコードと、ほとんど実りのない恋とに熱中しながら過ごしたのだ。しかし、ジュウル・ルナアルではないが、
「幸福とは幸福をさがすことである」のだから、こうした古い手紙のなかに過ぎ去った日を反芻してみるのも、たのしいことの一つかもしれない。

ともかくも、あれから十年たったのである。何もかも終わってしまった。
そして、何一つ終わったものはなかった。
今、ぼくは「人生の時」といったものについて考えながら、ぼにゃりと窓の
外の夕焼けを見つめている。

私はあの日に信じていた
粗い草の上に身を投げすてて
あてなく眼をそそぎながら
秋の空にしづかに迎へるのだと。
立原道造


大学の最初の夏。ぼくは三宮さんという同級生を好きになっていた。そして山田は演劇研究会の弓野さんを好きになっていた。二人とも、最初に恋心だけがあって、相手はあとからやってきた、という感じであった。


山田から寺山へ
ギリシャ語には海という言葉がない、と言うのだ。ギリシャ民族は海と決して離れず、他国を占領しても、海の近くだけで(例えばマルセーユ・ナポリ)奥地を恐れた民族だった。それが海という言葉を持たない。もちろん日本人がパンというフランス語を日本語化しているという意味では持っている。これはどうもおかしいことだという話だ。小林教授はその理由を知っているらしいのだが、言語学の面白さに生徒をひきこませようという気持ちか、言わない。


山田から寺山へ
「好きだって言って断られたら、もうつきあってくれないから・・・それなら言わないで、つき合っているほうがいいもんな」(三島由紀夫「十九才」)

しかし、どっちにしても、何もないまま会わないでお別れだな、と思うと寂しかった。
ノエル・カードの「逢いびき」という戯曲を読んだ。君の部屋にもあったから、読んだと思うけど。あの八五頁の中段から下段にかけて、うまいね。
(ローラ)(殆どささやくように)分かりますわ。(ベルの音が響く)あなたの汽車です。
(アレック)(うつむいて)ええ。
(ローラ)乗りおくれないようにしなければ・・・
(アレック)いや。
(ローラ)(再びおろおろ声で)どうなさったの?
(アレック)(努力して)何でも・・・何でもありません。

片方が強くなると、片方が弱くなり、離れがたい気持ちが、スマートに出ていてうまいと思った。


寺山から山田へ
ある日バーナード・ショーに手紙が来た。

「わたしは豊かな肉体美をもった踊り子です。結婚しましょう。そうするとあなたの頭脳とわたしの肉体で素晴らしい子が生まれますわ」
すかさず彼は返信をしたためて「止しましょう。もし、あなたの頭脳とわたしの肉体をもった子が生まれたら困るからね」

これは、きみへのなぐさめ!


寺山から山田へ
猫と女は呼ばないときにやってくる。メリメはうまいことを言ったね。甘やかしたので自惚れてやがんだな。モンテルランの「若き娘たち」を読んで、ざまあみろ、という気になったが、これはあんまりひどいので、例えば「女は(「あのこと」だけ)」って考え方。それなのに「あのこと」を知らないで僕が女を書こうなんて大しれていてそれだけ書き甲斐はあるが、実際上、女を扱えないわけだと思った。「若き娘たち」って変だね。娘はみんな若いよね。


寺山から山田へ
「男が愛し終わると女が愛し始める」ってモンテルランが言っているけど愛はそれ自体、目的には(少なくとも僕たちには)なり得ないと思うから、目的にしようとする女の慎重さに男が嫌気をさすのは当然なり。

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